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しがないサラリーマンのしがないブログ

ゴミメディアが流行るのは、ゴミでも読まずにいられない情報依存症が量産されたから。

弊誌のあるスタッフが「バズ」という現象についてうまいことを言っていた。記事が食べ物だとするなら、いま「読まれる記事」は、とにかく「のどごし勝負」だと言うのだ。栄養価でも、味でもなく、ただひたすら「のどごし」のいいもの。それだけが読まれ、消費されていく。それこそが「バズ」というものの正体であり、まさに、マケドニアの若者たちや件のゲーム会社が見抜いていたことでもあった。factは問題外。ただ自分の愛着や憎悪の依り代になればいい。ただそのためだけの情報。

「ニーズ」に死を:トランプ・マケドニア・DeNAと2017年のメディアについて|WIRED.jp

 

この「のどごし」のよさは、刺激のつよさ、読みやすさっていうことかなと思った。

 

私はついついまとめサイトやら2chも見てしまう人間ですが、思うにデマサイトに限らずこうしたゴミメディアを希求する「ニーズ」とは、政治におけるイデオロギー、あるいは病気への不安などということよりももっと単純に、読むことそのものの快楽にある気がする。


そしてゴミメディアが流行る原因を「体力」のなさだと私が思うのは、これを単純にリテラシーの問題と言い切れないと思うからだ。

 

例えば、ある分野でリテラシーがキッチリ働く人であっても、別の分野においてデマを鵜呑みにしてしまったことは誰にでもあるのではないだろうか。後からよくよく考えれば、真偽がわかった、あるいは少なくとも態度を保留しておくことができたはずなのに、それができなかったという経験は私にもある。

デマの問題に限らず、ついついしょうもないまとめサイトやら、大して興味もない記事を見てしまうのは、しっかり記述された記事や本を読むほどの体力がない時である。

 

こうした経験を振り返ってみると、それはリテラシーの不足というよりも、注意不足、体力不足の問題に思えてならない。そして、なぜ体力不足が起こるかというと、要するに何でもかんでも暇があったら読まずにいられない生活習慣が原因なのだ。

 

そう考えると、デマメディアを嗜む読者に対して、真実を確かめないのはけしからん!リテラシーを身につけよ!という批判をするのは適切ではない。

それも正しいけど、問題の本質は私も含めた多くの人々が、スマホ・PCの常用によって記事を大量に読むことを身体化されてしまったこと、そしてそんな日常のなかで、時として読むことの快楽がコンテンツそのものの価値に優先してしまうことにあるのではないだろうか。

 また、翻ってゴミでもないデマでもない真っ当な読書においても、実はこうした「のどごし」的な読むことの快楽はこっそり潜んでおり、日々注意しなきゃいけないだろう。

 

 

とにかく、日々ネットやらSNSで記事を読んでるわれわれは、その行為において、実際何をしているかをもう少しちゃんと考えるべきだろう。
私なんかは、新聞やテレビが教えてくれた流し読み、ザッピングといった読み方をそのままネットに応用してしまっている。
その結果、時間があればついついテレビを見るようにまとめサイトやらはてぶをみてしまう日々である。
そうした生活を改めて、もう少し読み方に注意すれば少なくともデマにひっかかるほど体力をすり減らすことはなくなるだろうと思う。

 

新年の反省。

 

そもそも、継続して一定の情報を垂れ流し続ける新聞・雑誌、そしてその形態を引き継ぐネットメディアは情報依存患者の存在を前提にして初めて存在できるわけで、一個人としては彼らとの時間のお取引を減らしていくくらいしかできないかもしれない。

 

何はともあれ、今年からは暇な時はiPhoneに入れたKindleで洋書を齧るような人間になりたい…

 

【読書メモ】井筒俊彦「意識と本質Ⅰ」

私にとって「本質的思考」を否定できるという発見は、
私の人生をかなり生きやすくしてきたと思います。
その意味で、この『意識と本質』という本は、私を救った実践的な哲学書と言えます。

また、本質の否定という思考は、私が触れてきた社会学の背景にある思想です。
例えば、「国家」、「人種」、「正義」、「家族」に関する、かくあるべきというイデオロギーが、実は作られたものであるというように考えられるのは
これらの概念の本質性を疑うことができることを知ることによって可能になります。


一方で、我々は本能的にものを、普遍的、本質的に見てしまいますので
日常世界において「本質」認知から逃げることは困難です。

人を見て、「あれは人である」と思わないでいられる人がいるでしょうか。
何か花らしきものを見かけて、それを花であると了解すること。
ここにはすでに「本質」認知が存在しています。

我々は、少なくとも言語を使用する以上は、ある種の本質的思考からは避けられないようです。

「コトバの意味作用とは、本来的には全然分節のない「黒々として薄気味悪い塊り」でしかない「存在」にいろいろな符牒を付けて事物を作り出し、それらを個々別々のものとして指示するということだ。」

井筒俊彦は、言葉の性質には、「本質」があるかのようにみせかける機能があると指摘し、これを「本質」喚起機能と呼んでいます。


私は、言葉の本質喚起機能には常に注意して生活しなければ、と思っています。
言葉には、ないものを存在するかのようにみせかける機能があります。

なぜ動画を見るのは楽で、読書はストレスなのか(小説を除く)


私にとって、読書の苦しみ、というよりも文章を読む苦しみの大きな理由は、没頭できないことです。

私は、読書をするだけの集中力がないときは、ついつい動画を見てしまう癖があります。
これは単に読書が一定の集中力を要するからという理由だけではないようです。

YouTubeであれNetflixあれニコニコ動画であれ、動画を見ている間は我を忘れることができます。
しかし、読書とは常に自分の意識が存在している状態に感じ、これが私にとってのストレスであるようです。
※小説は我を忘れることができるので、この意味での読書には含みません。

 

このストレスから読書という行為を考えてみると、読書とは、自分の認識を常に確認しなければならない行為であり、よく言われることですが、コミュニケーションであるということを認めざるを得ないようです。

私は、著者の意見に常に疑問を持つといったような批判的な読み方はあまり実践したことがなく、むしろ著者の意見を鵜呑みにするほうです。
また、読書とは著者との対話であるという比喩にも懐疑的でした。
しかし、自分が読書のときにかかえるストレスを考察すると、少なくとも私にとって読書とは受動的な行為ではないようです。

私にとって読書とは、山を登るように、まさに「読み進める」という言葉がしっくりくる行為です。
一方、動画を見るということは電車に乗って流れる景色を見ることと言えるかもしれません。

読書に際しては、自分の意志をもって、足元を確認しながら、歩を進める必要があります。

【読書メモ】エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

 

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

 

 

 

 


サイードのいうアマチュアとは、組織(権力)に属さず、個人の意見を語ることを指す。
そして、個人の意見を語る以上、そこには何らかの個人的な曲解なり感性があるため、必然的に聴衆を逆撫でしたり、困惑させてしまうという。

全体を読んだ感想として、湾岸戦争が論旨に大きな影を落としており、そのせいで少し読みにくい。
知識人、アマチュアリズムという言葉を利用する意図には同意できるが
多用される「権力」、「体制」という言葉が、彼が批判する想像されたナショナリズム・人種に関する概念と同じく、捏造された概念という気がしてならなかった。

 


■知識人について

まず、つけくわておかなければならいのは
本書がかかれた時代でも既に「知識人」とはカビが生えた言葉であり、サイードはそれを再定義しようとしているということである。


「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力者に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」

「わたしにとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁(レプリゼント)し、肉付けし明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ。」

「知識人の活動の目的は、人間の自由と知識をひろげることである。このことは、いまもなお真実であるとわたしは信じている。」

「知識人はマルコ・ポーロに似ている。マルコ・ポーロは、いつも驚嘆の感覚を失うことはなく、つねに旅行者、つかのまの客人であって、たかり屋でも征服者でも略奪者でもないからである。」

 


■アマチュアリズムについて

「アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。」

 

アマチュア知識人論

アマチュア知識人論

私は学問を職業にしなかった人間である。
そのような人間にとって、大学を卒業した後に学問と関わっていくことは困難である。
もちろん本を読むことはできる。アマゾンでマニアックな本も買える。
問題は、いかにアウトプットをするかである。

そこで、考えるのはやはりブログである。
むしろ、ブログ(その他ツイッター等のSNS)しかない。
考えてみても他に思い付かない。
毎日8時くらいまで働く社会人が大学院に通うのも、もちろん実行する人はいるだろうが、あまり現実的ではない。
本を書くにも、どうやって出版社に売るのかわからない。
もちろん、ブログだって人になかなか見てもらえるものではない。
専門的な分野になればなるほど、読者は減っていくだろう。

しかし、ブログしかないのである。
見てもらえるかわからないものに、賭けるしかないのか現状なのだ。

私の目標は、ブログ等のアウトプットを通じて、アマチュア知識人のロールモデルを作ることである。
読書をし、感想を書き、研究を発展させる人をより増やしたい。
そして、日本に大型書店を増やしたいのである。

岩波新書『私の読書法』

 

私の読書法 (岩波新書 青版 397)

私の読書法 (岩波新書 青版 397)

 

 



清水幾太郎の「主観主義的読書法」が一番よかった。
要点をまとめると以下の通り。


・本に書き込むべし。
書物をノートにしてしまえ。
・本は絶対に私有財産でなければならぬ。
・本は身銭を切って買え。

松岡正剛も同じような方法を採っており、一番好感が持てる意見だった。
この方法の利点は、本を汚してしまうことで、他人から本を売れなどと言われないことにあると思う。
この方法は本を宝物として扱う人、例えば飾ったり、将来の資産価値に期待するような人には向かない。
しかし、本の内容を自分のものにしたい人には向いているだろう。

知的訓練を強制する圧力は如何にして可能か

人は学校を離れてどうやって学べるか。

いや、むしろ人は如何に学校を離れつつも知的生産を行えるか。
それが問題である。
さもなくば知的生産は個々人の強い動機や性格に強く依存することになる。
教育を受けた人間をより知的生産へと向かわせる圧力を設計しなければならない。
職業を持つ人間の余暇を知的生産に向かわせる仕組みが必要である。