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なぜ動画を見るのは楽で、読書はストレスなのか(小説を除く)


私にとって、読書の苦しみ、というよりも文章を読む苦しみの大きな理由は、没頭できないことです。

私は、読書をするだけの集中力がないときは、ついつい動画を見てしまう癖があります。
これは単に読書が一定の集中力を要するからという理由だけではないようです。

YouTubeであれNetflixあれニコニコ動画であれ、動画を見ている間は我を忘れることができます。
しかし、読書とは常に自分の意識が存在している状態に感じ、これが私にとってのストレスであるようです。
※小説は我を忘れることができるので、この意味での読書には含みません。

 

このストレスから読書という行為を考えてみると、読書とは、自分の認識を常に確認しなければならない行為であり、よく言われることですが、コミュニケーションであるということを認めざるを得ないようです。

私は、著者の意見に常に疑問を持つといったような批判的な読み方はあまり実践したことがなく、むしろ著者の意見を鵜呑みにするほうです。
また、読書とは著者との対話であるという比喩にも懐疑的でした。
しかし、自分が読書のときにかかえるストレスを考察すると、少なくとも私にとって読書とは受動的な行為ではないようです。

私にとって読書とは、山を登るように、まさに「読み進める」という言葉がしっくりくる行為です。
一方、動画を見るということは電車に乗って流れる景色を見ることと言えるかもしれません。

読書に際しては、自分の意志をもって、足元を確認しながら、歩を進める必要があります。

【読書メモ】エドワード・W・サイード『知識人とは何か』

 

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

 

 

 

 


サイードのいうアマチュアとは、組織(権力)に属さず、個人の意見を語ることを指す。
そして、個人の意見を語る以上、そこには何らかの個人的な曲解なり感性があるため、必然的に聴衆を逆撫でしたり、困惑させてしまうという。

全体を読んだ感想として、湾岸戦争が論旨に大きな影を落としており、そのせいで少し読みにくい。
知識人、アマチュアリズムという言葉を利用する意図には同意できるが
多用される「権力」、「体制」という言葉が、彼が批判する想像されたナショナリズム・人種に関する概念と同じく、捏造された概念という気がしてならなかった。

 


■知識人について

まず、つけくわておかなければならいのは
本書がかかれた時代でも既に「知識人」とはカビが生えた言葉であり、サイードはそれを再定義しようとしているということである。


「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力者に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」

「わたしにとってなにより重要な事実は、知識人が、公衆に向けて、あるいは公衆になりかわって、メッセージなり、思想なり、哲学なり、意見なりを、表象=代弁(レプリゼント)し、肉付けし明晰に言語化できる能力にめぐまれた個人であるということだ。」

「知識人の活動の目的は、人間の自由と知識をひろげることである。このことは、いまもなお真実であるとわたしは信じている。」

「知識人はマルコ・ポーロに似ている。マルコ・ポーロは、いつも驚嘆の感覚を失うことはなく、つねに旅行者、つかのまの客人であって、たかり屋でも征服者でも略奪者でもないからである。」

 


■アマチュアリズムについて

「アマチュアリズムとは、専門家のように利益や褒賞によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求することをいう。」

 

アマチュア知識人論

アマチュア知識人論

私は学問を職業にしなかった人間である。
そのような人間にとって、大学を卒業した後に学問と関わっていくことは困難である。
もちろん本を読むことはできる。アマゾンでマニアックな本も買える。
問題は、いかにアウトプットをするかである。

そこで、考えるのはやはりブログである。
むしろ、ブログ(その他ツイッター等のSNS)しかない。
考えてみても他に思い付かない。
毎日8時くらいまで働く社会人が大学院に通うのも、もちろん実行する人はいるだろうが、あまり現実的ではない。
本を書くにも、どうやって出版社に売るのかわからない。
もちろん、ブログだって人になかなか見てもらえるものではない。
専門的な分野になればなるほど、読者は減っていくだろう。

しかし、ブログしかないのである。
見てもらえるかわからないものに、賭けるしかないのか現状なのだ。

私の目標は、ブログ等のアウトプットを通じて、アマチュア知識人のロールモデルを作ることである。
読書をし、感想を書き、研究を発展させる人をより増やしたい。
そして、日本に大型書店を増やしたいのである。

岩波新書『私の読書法』

 

私の読書法 (岩波新書 青版 397)

私の読書法 (岩波新書 青版 397)

 

 



清水幾太郎の「主観主義的読書法」が一番よかった。
要点をまとめると以下の通り。


・本に書き込むべし。
書物をノートにしてしまえ。
・本は絶対に私有財産でなければならぬ。
・本は身銭を切って買え。

松岡正剛も同じような方法を採っており、一番好感が持てる意見だった。
この方法の利点は、本を汚してしまうことで、他人から本を売れなどと言われないことにあると思う。
この方法は本を宝物として扱う人、例えば飾ったり、将来の資産価値に期待するような人には向かない。
しかし、本の内容を自分のものにしたい人には向いているだろう。

知的訓練を強制する圧力は如何にして可能か

人は学校を離れてどうやって学べるか。

いや、むしろ人は如何に学校を離れつつも知的生産を行えるか。
それが問題である。
さもなくば知的生産は個々人の強い動機や性格に強く依存することになる。
教育を受けた人間をより知的生産へと向かわせる圧力を設計しなければならない。
職業を持つ人間の余暇を知的生産に向かわせる仕組みが必要である。

The Autobiography of BENJAMIN FRANKLIN

The Autobiography of Benjamin Franklin (Dover Thrift Editions)

The Autobiography of Benjamin Franklin (Dover Thrift Editions)




子供の頃から食事の席で様々な話を繰り広げたせいで、食べ物に無関心になったという。